image of W.O Bentley racing Quadrand motorcycle in 1907
Legendary Bentley DFP driving along a racetrack with spectators in the background

BENTLEYのストーリー

かけがえのないストーリー

1919年にBentley Motorsを設立したW.O.ベントレーにはじまり、現在のBentleyで働く4千人超の従業員にいたるまで、Bentley Motorsは常に最上級の素材にこだわり、優れた技術を駆使して他にはない特別なクルマを設計・製造してきました。そうして完成した特別なクルマのハンドルを握ったのも、やはり特別な人たちでした。Bentleyのドライバーといえば、1920年代に自動車レースで活躍したBentleyボーイズ&Bentleyガールズを思い浮かべますが、W.O.ベントレーが革新的技術を生み出すきっかけとなった彼らも、先見性に長けた現代のBentleyオーナーも、新しい風を吹き込む存在であることに変わりはありません。

 

Bentleyブランドは常に進化しています。このセクションでは、Bentleyが繰り返してきた技術革新と将来のビジョンについてご紹介します。Bentley Motorsは現在、持続可能なより良い未来を築くため、2020年から着手している事業戦略「ビヨンド100」を軸とし、世界で最も持続可能なラグジュアリーカーブランドになるという目標に向かって邁進しています。

 

自動車を製造する人々と運転する人々との間には切っても切れない特別なつながりと、かけがえのないストーリーがあります。Bentleyのストーリーを是非ご覧ください。

Close up of Chrome Matrix grille.
Walter Owen Bentley, on driver' seat of Bentley race car with steering wheel and a passenger in view.

W.O. ベントレー

ウォルター・オーウェン・ベントレーは一家の末っ子、9人目の子として1888年に生まれました。W.O.と呼ばれることを好んだ彼が自身の名を冠した会社を設立したのは1919年7月10日。それから100年以上を経た現在、彼が設立した会社の名は世界中に知られ、そのクルマは優れたパフォーマンス、傑出したクラフトマンシップ、最高の素材が類い希なカタチで融合していると高く評価されています。W.O.ベントレーは自動車の歴史を大きく変えた人物です。

Close up of Illuminated Flying ‘B’ radiator mascot – bright polished stainless steel set in the front end Bentley Flying Spur
Close up of jewel cut Bentley Full Led head lamps.

Flying Bの歴史

Flying Bの誕生
ダービー時代のFlying B
格納式のFlying B
輝くFlying B

1920年代、ボンネットのマスコットは高級車のシンボルでした。小さな彫刻のようにそびえ立つマスコットはエフォートレスなパワーとスピードの象徴であり、オーナーのステータスの証でもありました。BentleyのウィングドBエンブレムをデザインした有名アーティスト、F・ゴードン・クロスビーは当時、「イカロス」をモチーフとしたマスコットもデザインしており、Bentleyの初期のカタログにはイカロスのマスコットが掲載されていましたが、著作権の問題があったようで、そのマスコットが実際に製作されることはありませんでした。Bentleyの正式なマスコットとしてFlying Bが登場したのは1920年代の半ば頃で、クリックルウッド時代のオーナーに向け、オプション装備として提供されていました。その頃のFlying Bは真鍮製の黄金色で、まっすぐに立った「B」から水平に翼が伸びており、これもクロスビーのデザインと考えられています。

1930年代、ロールス・ロイスのダービー工場で生産されたダービーベントレーは「サイレントスポーツカー」と呼ばれ、低く構えた流れるようなデザインが特徴でした。1933年、ダービーベントレーのために新しいマスコットをデザインすることになったのは、ロールス・ロイスのマスコットであるスピリット・オブ・エクスタシーのデザイナー、チャールズ・サイクスでした。サイクスが考案したのは、前方に傾斜した「B」に翼をひとつ備えたアールデコスタイルのマスコットで、左右どちらから見ても「B」の形がはっきり分かるよう、角ばった形状でした。ですが、翼がひとつのデザインは人気が出ず、結局、翼がふたつのデザインに変更されました。その後発表されたMRシリーズとMXシリーズのベントレーはオーバードライブを組み込んだスポーティなキャラクターであったため、Flying Bも後方に傾斜したスポーティなデザインのものが登場しました。ただし、こうしたマスコットにも欠点があり、ボンネットを開けるときにマスコットを横に捻ってから開けないと、ボディがへこんでしまうのが悩みの種でした。

戦後から1970年代にかけてクルー工場で製造されたBentleyには、翼が二つのFlying Bマスコットの小型版が装備されました。ですが、歩行者を保護するための安全基準が施行され、車の外部表面から突き出た装飾品が禁止されたことに伴い、このマスコットは姿を消しました。2006年、Flying Bは格納式となって見事復活。Azure、Arnage、Brooklandsに続きMulsanneにも格納式マスコットが用意されました。また、Bentley MULLINERでは、ダークティントやゴールドといった特別仕様のFlying Bマスコットが限定モデル向けに製作されました。

ベントレーが創立100周年を迎えた2019年、新時代に向けた4ドアグランドツアラーの決定版として新型フライングスパーが誕生しました。それに伴い、Flying Bのデザインも見直されることになり、これからの100年に相応しいマスコットを決定するため、ベントレーの全デザイナーを対象としたコンペが開催されました。優勝したのはフクロウをイメージしたFlying B、Hoe Young Hwangの作品。フクロウはじっとしているときは沈着冷静で穏やかに見えますが、ひとたび動きだすと驚くほど機敏でパワフルな猛禽類であることから、新型フライングスパーのイメージにぴったりでした。新マスコットのシンプルかつモダンな形状は、獲物を追って静かな湖面の上を滑空するフクロウを表現し、広くなったベース部分は波打つ湖面を表現しています。ドライバーだけでなく、すべての乗員に最高の体験をもたらすよう、隅々まで細心の配慮がなされた新型フライングスパーも、美しい翼を広げたようなデザインのキャビンがとりわけ印象的でした。新しいFlying Bはステンレス鋳造品で、タービンエンジンの一般的な製造工程と同じ方法を用い、手作業で研磨されます。車をアンロックすると、Flying Bマスコットが電動でせり上がり、翼のクリスタルが光り輝きます。それと連動してヘッドライトが点灯し、粋なウェルカムシーケンスで乗員を迎えます。翼のデザインは、伝統的な左右非対称のデザインを受け継いでいますが、最新テクノロジーとの融合が絶妙です。

Front view of bonnet featuring Chrome Bentley Flying Wings Badge and Black Gloss Matrix grille.
Close up view of Grey stone texture.

ウィングドBの歴史

ウィングドBの誕生
進化するウィングドB
創立100周年記念

フライングBという立体的なマスコットが誕生する前から、翼をモチーフにしたベントレーウィングのデザインは存在していました。1919年に会社を設立したW.O.ベントレーは、高性能への飽くなき探求をイメージしたロゴマークが必要だと考え、友人のF・ゴードン・クロスビーにデザインを依頼しました。クロスビーは当時、『AUTOCAR』誌の自動車イラストレーターとして大人気で、長距離モーターレースや大陸横断ツアーを読者に浸透させた立役者でした。W.O.からの依頼を受け、クロスビーはウィングドBを完成させました。左右の翼の中心にベントレーの「B」を配置し、躍動感と爽快感が伝わってくるデザインでした。W.O.ベントレーが第一次大戦中に戦闘機のエンジンを設計していたことから翼のイメージを膨らませたのかもしれません。翼に刻まれた羽根の数が左右で異なるものクロスビーのアイデアです。当時は模倣品が多かったため、模倣品と区別するための工夫でした。

1930年代、ベントレーがロールス・ロイスの傘下に入ると、ベントレーウィングも変化し、やや下向きになっていた翼がまっすぐ水平になりました。また、羽根の枚数が左右とも10枚になり、当初の特徴がひとつ消え去りました。その後、1990年代に再び見直しが行われた際には、クロスビーがデザインした左右非対称の翼が復活し、中央の「B」もクロスビーのデザインに近い形に変更されました。そして2002年、新たなコーポレートアイデンティティの導入を期に、ウィングドBは現在のデザインに生まれ変わりました。当初のデザインを受け継ぎつつ、現代のベントレーに相応しいイメージが表現されています。

ベントレーは2019年に創立100周年を迎え、この年に製造された車両のために100周年専用デザインのウィングドBが作成されました。中央の楕円とベントレーの「B」がセンテナリーゴールドと呼ばれる特別なメタリック仕上げで縁取りされ、「B」の左側に「1919」、右側に「2019」という年号が追加されました。「1919」はクロスビーが最初のウィングドBをデザインした年、「2019」はその100年後の創立100周年です。

Bentley 3 Litre race car, on an unpaved race track with mountains in backdrop.
Close up of Chrome matrix grille.

ベントレー 3リッター

3リッター
速い車、良い車
EXP2の開発
3リッターの生産
3リッターがレースを席巻
オールドナンバー7
EXP2の現在

3リッターは、W.O.ベントレーが目指した「速い車、良い車、クラス最高の車」そのものでした。1921年から1929年まで生産され、1924年と1927年のル・マン24時間レースをはじめ、数々のレースで勝利を収めました。3リッター開発のために製作された試作車の2号機EXP2は、ベントレーの名車コレクションの中でも特に大切にされています。EXP2は現存する最古のベントレーであり、ベントレーに初勝利をもたらした車でもあります。

第一次大戦前、W.O.ベントレーはフランス製のDFP車でレースやヒルクライムに参戦しては勝利し、エンジニアとしての信頼を高めていました。ある日、ピストンにアルミニウムを使用することを思いついたW.O.は、誰よりも早くアルミニウム製ピストンを開発し、そのピストンを採用したDFPで素晴らしいレース結果を残しました。第一次大戦が勃発すると、W.O.の技術力はベントレーロータリー1およびロータリー2という戦闘機エンジンの開発に活かされました。大英帝国勲章(MBE)を受章したW.O.ベントレー大尉は1919年に除隊後、戦時中ずっと夢見ていた自動車の開発に着手。高い耐久性とパワーが求められる航空機エンジンの開発に成功した経験が、自動車開発の拠り所となりました。メルセデスの1914年製Grand Prix、プジョーの1913年製Coupe de l’Autoという戦前のエンジン2基も参考にしながら、W.O.が完成させた3リッターモノブロックエンジンは1気筒4バルブ、ツインスパークプラグ、ツインマグネトーを採用し、主な材質はアルミニウムとマグネシウム。1920年当時のロードカーとしては、かなり先進的なエンジンでした。3リッターエンジンは低回転域から力強いトルクを発生し、耐久性と強度に優れた高性能エンジンで、その特徴は後に続くすべてのベントレーに受け継がれました。自動車ジャーナリストのパイオニア、SCH・サミー・デイビスは1号車のEXP1に試乗し、『AUTOCAR』誌にレビューを掲載:「軽量ボディのスポーティな車で制限速度を気にせず、大陸横断旅行を楽しみたい人にとって、ベントレー3リッターほど理想的な車はないと断言できる」と絶賛しました。EXP1に続いて製作されたEXP2は、1919年のオリンピアモーターショーで初公開されましたが、一部のエンジン部品の到着が遅れたため、展示されただけで、走りが披露されることはありませんでした。

新型のベントレー3リッターはブルックランズで人々の注目の的となりました。しかし、3リッターの最初の量産モデルがオーナーのノエル・ファン・ラールテに納車されたのは1921年9月。EXP2の初公開から納車までの間にローリングシャシーは750ポンドから1,100ポンドに値上がりしていました。1919年のオリンピアモーターショーから1921年まで納車がずれ込んだのは、洗練性を向上させるために大幅な改良を施したことが原因でした。W.O.は後に、「私はとにかく騒音が大嫌い。時速80マイルで騒音をたてながら走るより、時速70マイルで静かに走る方がはるかに素晴らしい」と記録に残しています。EXP2は当初、シンプルな2人乗りのボディでしたが、1921年3月にはスポーティなダークレッドのボディとアルミニウムのボンネットに変更されました。そのボディを製作したのはチャグフォード・ストリートのコーチビルダー、JH・イースターでした。1921年5月7日(土)、この車はブルックランズで初レースに臨み、ベントレーのワークスドライバー、フランク・クレメントがハンドルを握りましたが、表彰台には届きませんでした。EXP2がブルックランズでベントレーに初優勝をもたらしたのは1921年5月16日(月)、ウィットサン・ジュニア・スプリント・ハンディキャップ・レースでした。EXP2は1921年から1922年にかけて様々なテストやモーターレースに使用された後、1923年9月7日にトラックメーカーのE.R.フォーデン社に売却されました。

3リッターの生産は当初こそ低調でしたが、ほどなくして裕福な貴族階級の顧客から注文が相次ぎ、その中にはジョージ王子(後のケント公爵)、ウェールズ皇太子(エドワード8世)、ヨーク公(後のジョージ6世)などの名前もありました。3リッターは1929年まで生産され、標準ホイールベースのブルーラベルのほか、レッドラベル スピードや、時速100マイルのグリーンラベルといったモデルが発表されました。ブルーラベルは「定員4名、ブルックランズを時速75マイルで周回できる」とベントレーの資料に記録されています。1920年代から1930年代は、エンジン、ドライブトレイン、サスペンション、シャシーを高級車メーカーが供給し、ボディの選択は顧客任せとするのが一般的だったため、ベントレーもその慣例にしたがっていました。どっしりと重量のある4シーターのボディで3リッターを取り囲み、せっかくの性能を台無しにしてしまう顧客もいました。3リッターが成功を収める一方でW.O.が6気筒の6 ½リッターを開発しようと思い立ったのは、そうした顧客の存在があったからでした。1920年代、クリックルウッドの工場では4 ½リッター、スピードシックス、8リッターなども製造されましたが、スポーティなオープンツアラーである3リッターは別格で、大陸を横断できるスピードとスタミナで人々を魅了しました。3リッターは1927年まで、ベントレーの主力モデルでした。

試作車のEXP2が1921年にブルックランズで初勝利した後、量産型の3リッターも数え切れないほどの勝利を収めました。3リッターのオーナーの一人、冒険家のジョン・ダフは、1923年に第1回ル・マン24時間レースが開催されることを知り、自身の3リッターで出場することを決めますが、それを聞いたW.O.は「クレイジーだ。車というのは24時間走り続けるようには設計されていない」と悲観的でした。それでもW.O.はダフの説得に応じ、クレイジーなレースを見届けようと土壇場でサルト・サーキットに向かいました。ダフはベントレーのワークスドライバーであったクレメントをチームメイトに迎え、ガソリンタンクに穴が開いたアクシデントによって優勝こそ逃したものの、最速ラップを叩き出し、4位でフィニッシュ。翌年のル・マンでは、ダフとクレメントがベントレーモーターズの全面的なバックアップを受けて優勝を飾り、雪辱を果たしました。ダフは1925年にも3リッターのハンドルを握り、24時間で21個の世界記録を樹立しています。

ベントレー3リッターの勝利の中でも、1927年のル・マンは語り草となっています。そのレースではベントレーのワークスカーである2台の4 ½リッターがトップグループを走っていましたが、午後9時30分、ホワイトハウスコーナーで壮絶なクラッシュが発生し、2台ともリタイア。サミー・デイビスがドライバーを務めるベントレー3リッターも巻き込まれ、シャシーがねじれ、フロントアクスルが曲がり、ステアリングが損傷したものの、リタイアはなんとか回避しました。デーヴィスはパートナーのJD・ベンジャフィールドとともに、傷だらけの「オールドナンバー7」で果敢に走り続け、奇跡の総合優勝を遂げました。サヴォイ・ホテルで開催された祝賀ディナーでは、肝心の主賓がいなければ乾杯ができないということになり、クラッシュで傷ついた優勝マシンが会場に搬入されたのは有名な話です。2003年、ベントレースピード8がル・マンで優勝した際も祝賀ディナーの主賓は優勝マシンでした。

EXP2は1921年のレース優勝当時の仕様にしたがい、1990年代に全面的にレストアされました。ベントレーモーターズの所有となったEXP2は、1920年代初頭にベントレーの象徴であったのと同じように、今もベントレーの宝です。クルー本社のリネージコレクションに展示されていないときは、上海のワールド・オブ・ベントレー主催のイベントでアブダビのヤス・マリーナ・サーキットに登場し、ベントレーのゲストを乗せることもあれば、カリフォルニアのクエイル・ラリーやペブルビーチ・コンクール・デレガンスに展示されることもあります。誕生から1世紀以上を経ても、EXP2はまだまだ現役です。

Detailed view of Bright Polished Chrome Grille.
Group of gentlemen posing along side a Bentley

ベントレーボーイズ&ベントレーガールズ

往年のベントレーボーイズは、レースとチャレンジとシャンパンをこよなく愛する裕福な若者やレーサーや冒険家たちの集まりでした。彼らの結束は固く、1920年代から1930年代にかけて時代の寵児として一世を風靡しました。ベントレーボーイズがレースにかける情熱やチャレンジ精神は、ベントレーのドライバーやファンに幅広く受け入れられました。ベントレーのハンドルを握ってル・マンを席巻したベントレーボーイズは、わずか8年の間にル・マンで5度の優勝を果たしました。

 

話題をさらったのはベントレーボーイズだけではありません。ベントレーガールズも自ら道を切り開き、世間をあっと驚かせました。メアリー・ペトレ・ブルース、ドロシー・パジェ、そしてベントレーのフライングレディ、ダイアナ・バーナート。3名ともベントレーとの縁が深く、かけがえのない伝説を残しました。

Bentley Blower 4.5 litre supercharger, taking a sharp turn on an unpaved race track.
Close up of Beluga Hide featured in Bentley models.

ベントレーブロワー

スーパーチャージャー付き4 ½リッター
出力向上への挑戦
バーキンを支えた風変わりなパトロン
ル・マンを激走したブロワー
伝説として語り継がれるヒーロー

戦前を代表するレーシングベントレーとして、「ブロワー」の愛称で知られるスーパーチャージャー付き4 ½リッターを挙げる愛好家は多いでしょう。迫力あるブロワーの姿は、そのハンドルを握ったベントレーボーイズのメンバー、ヘンリー・ティム・バーキンの颯爽たる姿とともに、永遠に色褪せることはありません。スーパーチャージャー付き4 ½リッターは残念なことに、クリックルウッドで製造されたベントレーの中では他のモデルほどレースで勝利することができませんでした。しかも、創業者のW.O.ベントレーはスーパーチャージャーを装着することに異を唱えていました。それでも、スーパーチャージャー付き4 ½リッターはロケットのような加速を見せ、レースに参加するたびに大勢のファンを魅了したのです。

1928年を迎える頃には、4 ½リッターエンジンの開発が頭打ちになり、圧倒的な強さを誇っていたベントレーとそれを追うライバルたちの差は縮まる一方でした。W.O.ベントレーは、排気量を増やす以外に道はないと考え、6 ½リッターのスピードシックスを開発。スピードシックスは1929年と1930年のル・マンで優勝するなど、大成功を収めました。しかし、ティム・バーキンが提案したのは4気筒の4 ½リッターにスーパーチャージャーを装着することでした。1929年、バーキンはエンジニアのアムハースト・ヴィリヤースが設計したスーパーチャージャーを採用し、そのスーパーチャージャーを装着した4 ½リッターの生産をベントレーに依頼しました。スーパーチャージャーによって出力は約110bhpから175bhpに向上しましたが、当時のレース規定を満たすために50台生産する必要があったため、バーキンは裕福な女性篤志家であったドロシー・パジェから資金援助を受けることにしました。W.O.は「スーパーチャージャーがエンジンの設計も性能も台無しする」として最後まで反対しましたが、バーキンがベントレーのウルフ・バーナート会長を説得して生産を承認させ、W.O.の意見は却下されました。

クイーンズバラ卿と裕福なアメリカ人女性のポーリン・ホイットニーの娘、ドロシー・ウィンダム・パジェは英国の有名な大物馬主であり、数多くの調教師の協力の下、1,532回もの勝利を収めた人物でした。晩年には午後6時半に朝食、午後10時に昼食、早朝にたっぷりと夕食をとるという完全に夜型の生活を送り、かなり風変わりな人物としても知られました。そんな彼女がブルックランズを訪れ、モーターレースに興味を持つようになったのは1920年代の後半、彼女が若い頃でした。ティム・バーキンから運転のレッスンを受けた彼女は、「ミス・ウィンダム」という名前でレースに出場。バーキンは、これまで出会った中で最高に速い女性ドライバーの一人だと彼女を称えました。彼女の資金提供がなければ、ブロワーベントレーがレース界の伝説として語り継がれることもなかったでしょう。

1930年、ル・マン24時間レースにてティム・バーキンがメルセデス・ベンツのドライバー、ルドルフ・カラツィオラと繰り広げた激闘は、今やどこまでが実話なのかもはっきりしないほど伝説となっています。この年、ベントレーはワークスチームとして3台のスピードシックスで出場。バーキンは自身のチームとして2台のスーパーチャージャー付き4 ½リッターで出場しました。スタート直後からカラツィオラと激しく首位を争ったバーキンは、ユノディエールと呼ばれるロングストレートで草の上に2輪を落としたままSSKメルセデスを見事に抜き去りました。ですが、結局優勝したのは「オールドナンバーワン」として知られるスピードシックスのウルフ・バーナート/グレン・キッドストン組。バーキンのチームはブロワーが2台ともリタイアという残念な結果に終わりました。その後ベントレーは、ブロワーに乗ったバーキンが「ウサギとカメ」戦略を使ってメルセデスを無理に走らせたおかげで、スピードシックスが勝利したという話を広めましたが、バーキンは優勝を狙って全速力で走っていただけというのが本当のところでしょう。ベントレーのレーシングマネージャー、ノビー・クラークはブロワーが耐久レースで勝てなかった理由を端的に説明しています。「ブロワーはロバが干し草を食い尽くすようにプラグを食い尽くすのです」

ブロワーが最高の走りを披露したのは1930年にフランスのポーで開催されたフランスグランプリでした。ブガッティの軽量なレーシングカーが多く参戦する中、バーキンは巨大なベントレーを駆って2位でフィニッシュし、表彰台に上がりました。車重2トン超えのブロワーはあくまでもロードカーであり、グランプリ出場車の中で最も重い車であったことは間違いありません。バーキンのもう1台のブロワー(登録番号 UU 5871)はブルックランズのバンクセクションを走るためにラジエターを覆い、シングルシーターに改造されました。1932年3月、コンクリートのバンクの質が悪いブルックランズで何度も宙に浮くブロワーを操りつつ、バーキンは時速137.96マイルのラップレコードを樹立。このとき、エンジン出力は240bhpに向上していました。エンジニアであり自動車史家でもあるローレンス・ポメロイは、「バーキンの見事なドライビングとブロワーの堂々としたルックスこそ、伝説として語り継がれるヒーローにふさわしい」と述べました。

Bentley Speed Six, rear view, driving on a race track in rain
Close up of Jewel cut, diamond shaped, Full LED Bentley tail lamp

ベントレー スピードシックス

最も成功したレーシングベントレー
新エンジンの開発
スピードシックス専用シャシー
レーシングバージョンのスピードシックス

ベントレーのレーシングカーの中で傑出した成功を収めたのは6 ½リッターの高性能バージョン、スピードシックスです。1929年のル・マンではウルフ・バーナート/ヘンリー・ティム・バーキン組、1930年のル・マンではウルフ・バーナート/グレン・キッドストン組のスピードシックスが総合優勝を果たしました。

ティム・バーキンはスーパーチャージャーで出力を向上しようと考えましたが、W.O.ベントレーは排気量を大きくすることが最良の方法だと考え、4 ½リッターの後継となる大型の新エンジンを開発しました。完成した直列6気筒エンジンはボア100mm、ストローク140mm、排気量約6.6リッター。スミス製5ジェットキャブレター1つ、ツインマグネトー、圧縮比4.4:1を基本構成とし、3500rpmで147bhpを発揮しました。このエンジンは北ロンドンのクリックルウッド工場で362基が製造され、顧客が選択したボディスタイルに合わせ、様々な長さのシャシーに搭載されました。

1928年にはスピードシックス専用シャシーが導入されました。6 ½リッターはSUツインキャブレター、高い圧縮比、高性能カムシャフトを採用し、出力が180bhpに向上。一層スポーティなエンジンとなりました。専用シャシーはホイールベースを3,505mm(138インチ)、3,569mm(140.5インチ)、3,874mm(152.5 インチ)から選択でき、短めのシャシーに人気が集まりました。スピードシックスは1928年から1930年にかけて182台製造され、ファクトリーレースカーには134インチ(11フィート2インチ)のシャシーフレームが使用されました。

スピードシックスのレーシングバージョンには圧縮比6.1:1、出力200bhpに改良されたエンジンが搭載されました。スピードシックスは1929年と1930年のル・マンで2年連続の総合優勝を果たし、ベントレーの歴史にその名を刻みました。とりわけ1929年はベントレーが圧倒的な強さを見せつけ、ウルフ・バーナート/ヘンリー・ティム・バーキン組のスピードシックスが1周目からチェッカーフラッグまでトップを走り続けて優勝し、2位から4位もベントレーが独占しました。バーキンは、それまでのラップレコードを46秒も縮めた7分21秒を叩き出したほか、平均時速83マイル、走行距離2,844kmなど、様々な記録を打ち立てました。ル・マンの1位から4位までを独占するようなメーカーは、その後30年近く現われませんでした。

Bentley Speed Six Coupe, side angled view with Walker Owen posing with it and trees in backdrop.
Close up of Bright Polished Chrome matrix grille.

ブルートレインとの対決

「ブルートレイン」の愛称で呼ばれたスピードシックス
挑戦するドライバー
雨と霧、パンクも発生
ブルートレインがカレー駅に到着する前にロンドンへ
どのスピードシックスで走ったのか?

「ブルートレイン」の愛称で呼ばれたスピードシックスは、戦前ベントレーの魅力とスピードとパワーの象徴です。ベントレーボーイズの一人、ウルフ・バーナートは、自身のスピードシックスで南フランスのコート・ダジュールからフランス北部のカレーまで寝台列車のブルートレインとスピードを競うという賭けをして見事勝利しました。当時のコースにコンチネンタル GT3-Rで挑む企画が『CAR MAGAZINE』誌によって2015年に実施されましたが、1930年にバーナートが記録した平均速度をかろうじて上回っただけという結果になり、バーナートの凄さが改めて証明されました。ブルートレインに勝ったのはコーチビルダーのガーニー・ナッティングが製造したスピードシックス クーペだというのがこれまでの定説でした。このスピードシックスは低いルーフラインと、サイドサドルのリアシート1つを備えた2+1のコックピットを持ち、どっしりと引き締まった形状が特徴で、ベントレーのデザインチームが現代のコンチネンタル GTを設計したときに参考にしたクルマの1つでした。しかし、バーナートがブルートレインとの対決で使用したスピードシックスがガーニー・ナッティング製だったのか、マリナーがボディを製作したサルーンだったのかは実のところはっきりしません。真実は謎のまま、伝説は語り継がれます。

ウルフ・バーナートは、南アフリカのキンバリーダイヤモンド鉱山で築いた莫大な財産を相続した人物で、ベントレーボーイズの中で際だった存在でした。優れたスポーツマンで気前が良く、人生を謳歌するタイプの彼がベントレーモーターズの会長に就任したのは1926年、ベントレーモーターズが資金難にあえいでいた頃でした。W.O.ベントレーはバーナートをチーム最高のドライバーとみなしており、バーナートはル・マンで3戦3勝を達成してW.O.の期待に応えました。1930年3月、バーナートがカンヌ近郊のヨットでディナーパーティーを楽しんでいたとき、たまたま話題に上ったのがブルートレインでした。その頃、ローバーとアルヴィスという自動車メーカー2社がサン・ラファエルからカレーまでブルートレインと速さを競い、勝利していたからでした。バーナートはそれを「大したことない」と言い切りました。彼はスピードシックスならカレー行きのブルートレインに大差で勝てると考え、200ポンドを賭けて挑むと提案しました。負けるような賭けをバーナートがするわけがないと分かっている仲間たちは誰も賭けに応じませんでしたが、バーナートは自分が正しいことを証明するためにレースを決行。翌日の午後5時45分、ブルートレインがカンヌ駅を出発すると同時にバーナートもスピードシックスでカンヌのカールトン・バーを出発。助手席に座ったのは友人でアマチュアゴルファーのデール・ボーンでした。

カンヌからリヨンへの185マイルは激しい雨にはばまれ、思うようにスピードが出せませんでした。午前4時頃、二人はリヨンとパリの中間にあるオセール付近で給油しようと、事前に予定していた給油ポイントを探しましたがなかなか見つからず、時間をロスしてしまいました。その後もパリ近郊で濃霧に見舞われたり、パンクして1個だけのスペアタイヤを取り付けたりと災難は続きます。それでも午前10時30分、バーナートとボーンはカレーに無事到着。スピードシックスは平均時速43.43マイルで当時の荒れた道路を570マイル以上走りきったのです。

バーナートはブルートレインよりかなり早くカレーに到着したため、そのままロンドンを目指すことにしました。郵便蒸気船でドーバー海峡を渡り、税関を通り、700マイル近くを猛スピードで走行。セント・ジェームズ通りのコンサーバティブ・クラブの前にスピードシックスを駐車したのが午後3時20分。その4分後、ブルートレインがカレー駅に到着しました。バーナートは自身が言い出した賭けに勝ったのです。ただし、フランス自動車工業会は公道でレースしたことに対してベントレーモーターズに約160ポンドの罰金を科し、1930年のパリ・サロンへのベントレーの出展を禁止しました。バーナートは、ベントレーの会長としてでなく、プライベートなレースだったと主張しましたが、認められませんでした。

ウルフ・バーナートがブルートレインに勝利したスピードシックスは、コーチビルダーのガーニー・ナッティングがボディを製作した2ドアクーペであると長年信じられてきました。バーナート会長は確かにその車を所有していましたし、画家のテレンス・クーネオの有名な作品の中でブルートレインとレースしているのもガーニー・ナッティング製クーペです。ですが、ガーニー・ナッティング製スピードシックスの現在の所有者であるブルース・マッコー氏が見つけた証拠は、この車がレース当日には完成していなかった可能性を示しています。バーナートはベントレーを何台も所有していたため、ブルートレインと競ったのはガーニー・ナッティング製クーペではなく、マリナー製ボディのスピードシックス 4ドアサルーンだったと考える歴史家もいます。シアトルに住むコレクターのマッコー氏はこの論争に決着を付けようと、バーナート所有のマリナー製ボディのスピードシックスに使用されていたシャシーとエンジンを見つけ出し、その過程で別のベントレーシャシーに架装されていたマリナー製ボディも発見しました。マッコー氏はシャシーとボディを元の組み合わせに戻してレストアし、そのマリナー製スピードシックスと自身が所有するガーニー・ナッティング製スピードシックスを2003年8月のペブルビーチ・コンクール・デレガンスに2台並べて展示しました。マッコー氏は、ブルートレインに勝利したのはおそらくマリナー製ボディのサルーンだったと考えていますが、決定的な証拠は永遠に見つからないかもしれません。しかし、ガーニー・ナッティング製クーペは今でも「ブルートレイン」の愛称で知られ、ベントレーの歴史を象徴する最高のカーデザインのひとつであることに違いはありません。

Interior, driver's side view of Bentley 8 litre featuring analogue gauges to centre console and 4 spoke steering wheel.
Detailed textured view of Terra Red stone veneer

ベントレー 8リッター

最高のグランドツアラー
完全無音で時速100マイル
W.O.のプライベートカー
ベントレードライバーズクラブでの再会
CEOのカンパニーカー

8リッターはW.O.ベントレーが設計した最高のグランドツアラーであると同時に、ベントレーモーターズのためにW.O.が設計した最後の車でもあります。1930年の発売当時、8リッターはベントレー随一のサイズと豪華さを誇りました。ですが、ウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌によって自動車の需要は低迷。ベントレーモーターズは財政難に陥り、ほどなくして他社に買収されました。8リッターが生産されたのは1930年から1932年まで、わずか100台にとどまりました。

8リッターの発表に際してW.O.は「完全無音で時速100マイルを発揮する車を作ることが長年の目標だったが、それが実現したと思う」と語りました。7,983ccの直列6気筒エンジンのパワーは強大で、どんなボディを選択しても時速100マイルは出せるとベントレーモーターズが保証しました。

8リッターの量産車1台目が納車されたのは1930年10月、オーナーは演劇界の大スター、ジャック・ブキャナンでした。量産車2台目となったシャシー番号「YF5002」はW.O.が自家用車として購入。W.O.の依頼を受けたH.J.マリナーが12フィートのショートホイールベースシャシーにサルーンボディを架装しました。この車は「GK706」として登録され、1930年10月から2年間、W.O.がプライベートの移動時に運転していました。彼はこの8リッターでイギリスやヨーロッパ大陸を何千マイルも走り、フランスのディエップからカンヌまで「ライトも点けず、時速85マイルくらいで何時間も走ったことがあった」と回想しています。W.O.の妻は有名画家のレイ・ノックオールズに依頼し、夫に1枚の絵をプレゼントしました。そこにはハンドルを握るW.O.の姿が後部座席の妻の目線で描かれていました。

1931年にベントレーモーターズが買収され、W.O.ベントレーは愛車8リッターをやむを得ず売却しました。ですが、W.O.は晩年、8リッターとの再会を果たします。それは、彼の功績を称えようとベントレードライバーズクラブが開催した祝賀会でのことでした。

ベントレーモーターズはW.O.が愛した8リッターを2006年に買い戻し、心を込めてレストアしました。以来、この8リッターは創業者から受け継ぐ伝統の象徴となり、歴代CEOの大切な「社用車」として使用されています。

Side angled view of 4.25 Litre Derby Bentley, black exterior featuring halogen lamps and vertical vaned radiator
Vertical fluted Bright Polished Chrome grille.

ベントレー マークV

4 ¼リッター ダービー ベントレー
独立懸架式フロントサスペンション
プロトタイプとワンオフ
量産には至らず
ベントレー リネージ コレクションのマークV

4 ¼リッター ダービー ベントレーは「サイレント スポーツカー」として売り出されました。端正で美しく、信頼性が高く、多くのオーナーに愛され、陸上最速記録の保持者であるマルコム・キャンベルもオーナーのひとりでした。しかし、1930年代後半になると、そのシャシーデザインは誰が見ても時代遅れとなり、ライバル各社が相次いで投入した新型車に押されてベントレーの売上は減少。対応策としてベントレー マークVを発売したものの、第二次世界大戦が勃発し、自動車の生産が1946年まで停止したため、マークVは短命に終わりました。マークVの後継車として、クルー工場で戦後初めて生産されたベントレー マークVIは大ヒット。元々、マークV向けに計画されていた部品の改良やエンジニアリングの見直しを全面的に採用したアップグレードモデルがマークVIでした。

マークVに搭載されたクロスフローレイアウトの6気筒OHV 4257ccエンジンは、4 ¼リッターベントレーのエンジンを大幅に改良したものでした。十字形の頑丈な新シャシーと深さのあるサイドメンバーによって剛性を高め、洗練性とハンドリングを向上。ブレーキはサーボ駆動、オーバードライブが備わった4速ギアボックスの2速、3速、4速はシンクロメッシュ付きでした。最大の改良点は、コイルスプリングとウィッシュボーンによる独立懸架式フロントサスペンションの採用でした。

何台か製作されたプロトタイプのマークVは役員らに好評で、1938年にはヨーロッパ大陸でマークVの長距離走行テストが実施されました。空力性能を強化したバージョンの「コーニッシュ」も製作され、デザインを担当したのは有名なエンビリコス ベントレーを手掛けたジョルジュ・ポーラン、コーチビルダーはフランスのヴァン・ヴォーレンでした。コーニッシュは戦前のエンビリコスと戦後のコンチネンタルを繋ぐ貴重な存在ですが、1939年8月7日にフランスで起きた事故でひどい損傷を受けたため、シャシーはイギリスのダービーに戻され、取り外されたボディはフランスの修理工場に送られました。修理が終わったボディはフランスのディエップ港でイギリスへの輸送を待っている間に爆撃を受け、残念ながら焼失してしまいました。8気筒バージョンのマークVもワンオフのプロトタイプとして製作され、その衝撃的なパフォーマンスから「スコールド・キャット」(Scalded Cat=やけどしたネコ)というニックネームが付けられました。

自動車歴史家ケン・リー氏はベントレー マークVについて「おそらくベントレー創業以来、最も徹底的に開発と試験を実施した車」だと述べています。マークVは量産が正式に承認され、後は1939年のオリンピアモーターショーでの初公開を待つばかりでした。モーターショーではコーチビルダー各社が製作した様々なボディとともに展示される予定でした。ですが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発。オリンピアモーターショーもマークVの量産も中止となりました。

現存するマークVはわずか7台。その中の1台がベントレー リネージ コレクションとして保管されています。1939年7月7日、シャシー番号「B-32-AW」(オプションのヒーター接続付き)を注文したのはコーチビルダーのジェームズ・ヤングでした。ヤングは、そのシャシーに2ドアクーペのボディを架装し、ニューヨーク万博に出展するつもりでした。戦争勃発によってヤングの注文はキャンセルされましたが、ベントレーモーターズは社内試験用にマークVを少量生産することを決定。パークウォード社がスタンダードなスチール製4ドアスポーツサルーンのボディを架装し、1940年5月にB-32-AWが完成しました。社内での試験が終わったB-32-AWは1940年10月19日、ジェフリー・スミスに納車され、彼が初代オーナーとなりました。この車は近年、ロールス・ロイス・ヘリテージ・トラストによってオリジナル仕様に忠実にレストアされました。

Bentley R-Type Continental 1952, front side angled view featuring Flying B radiator mascot, vertical vaned radiator - parked outside Bentley Woodshop.
Textured view of Tamo Ash by Mulliner hide

Rタイプ コンチネンタル

ベントレーグランドツアラーのお手本
ベントレーの新たな方向性
Rタイプ コンチネンタルのボディ製作
量産開始
現実世界の魔法のじゅうたん

1952年当時、時速115マイルを出せる車は一般的ではありませんでした。乗員4名(と荷物) を乗せて時速100マイルで巡航できるグランドツアラーは、Rタイプ コンチネンタルが初めてだったのです。Rタイプ コンチネンタルの生産台数はわずか208台でしたが、その後何十年もベントレーグランドツアラーのお手本とされました。その誕生から50年後、初代コンチネンタル GTを開発したデザインチームのインスピレーションの源になったのもRタイプ コンチネンタルでした。

戦前にコーチビルドされたベントレーの中で、ベントレーの未来を予感させる車が2つありました。エンビリコス ベントレーとコーニッシュです。どちらも流線型のボディが特徴で、大陸の高速道路をハイスピードで巡航できました。こうしたワンオフモデルに注目したのが、当時チーフプロジェクトエンジニアを務めていたアイヴァン・エヴァーデンでした。エヴァーデンはロールス・ロイスの社員として長年勤務していましたが、戦後の時代にベントレーの新たな方向性を模索し、少々ありきたりな兄弟モデルとの差別化を図ろうとしていました。エヴァーデンに協力したのは、クルー工場に新設されたスタイリング部門の責任者、ジョン・ブラッチリーでした。二人は、低くて長くてしなやかなボディ形状、垂直ではなく後方に傾いたラジエター、傾斜の大きいフロントガラス、後輪を覆うスパッツ、ファストバックのルーフラインを考案。高速走行時の安定性を高めるため、リアウィングにはフィンを追加しました。製作された4分の1サイズの模型を使用して、ノッティンガムシャー州ハックナルにある同社の航空エンジン部門で実施した風洞試験でエヴァーデンは、最高時速120マイルの対気速度が達成可能であると推定しました。1962年7月に彼はこう記録しています。「やろうと思えばもっとやれた。だが、実験の目的は従来の自動車の空気抵抗を減らすことだった。宇宙飛行士を乗せる宇宙カプセルを作りたかったわけじゃない」

エヴァーデンとブラッチリーはRタイプのシャシーをベースとし、ベントレーの伝統的スタイルを踏襲したグランドツアラーを設計しました。ヨーロッパ大陸を高速で長時間走行できる車両を目指し、軽量化と空力にこだわりました。美しい姿で高速走行するその車は、後に時代を象徴する画期的な存在となります。メカニカルな観点からは、スタンダードな直列6気筒4,566ccエンジンにやや調整を加えて140bhpから153bhpに出力を向上したほか、空力に優れた軽量ボディの良さを活かすために最終減速比を高く設定しました。流線型の新しいベントレークーペの製作はコーチビルダーのH.J.マリナーに任されました。軽量化のため、車体、ウィンドウフレーム、フロントガラスサラウンド、バックライトにアルミニウムが使用されたほか、シートフレームやバンパーもアルミニウム製でした。重量を抑えるため、ラジオは不要と判断されました。1950年当時、2トンの車重を支えながら時速115マイル以上で走行できるタイヤは存在しなかったため、軽量化は必須でした。エヴァーデンの計算では、時速100マイル以上で巡航するには、新しいグランドツアラーを約1750キロ以下にする必要がありました。指定タイヤはダンロップのミディアム・ディスタンス・トラックタイヤでしたが、それだけ車重を抑えてもタイヤが走行できる最大負荷と最高速度にぎりぎり収まる程度でした。すべての努力が報われたのは1951年9月。パリ近郊のモンレリ・サーキットにて、新型ベントレーが5周の平均時速118.75マイルを記録したときでした。最速ラップでは、あとわずかで時速120マイルでした。

試作車の時点では「OLG490」という登録番号だったことから「オルガ」と呼ばれていたこのプロジェクトは正式なプロジェクトではありませんでした。取締役会の中には、リムジンも製作しているロールス・ロイスの車としてはスポーティすぎるという意見もありました。それでもエヴァーデンは社内の賛同者や海外ディーラーの協力を得て、コーチビルドのベントレーグランドツアラーは市場に受け入れられるはずだと取締役会を説得。そして彼の予想通り、イギリスの購買税込みで6,928ポンドという高額にもかかわらず、世界中から注文が舞い込んだのでした。ちなみに1952年当時、イギリスの平均年収は468ポンド、平均住宅価格は1,891ポンドでした。Rタイプ コンチネンタルが生産された3年間、オーナーの多くはオプションの追加を希望したため、車重に影響することもありました。エンジンはボアの拡大によって4,887ccにスケールアップし、時速約115マイルの最高速度と時速100マイルでのゆったりとした巡航を実現しました。また、量産車は「オルガ」とは異なり、ルーフラインが低めになり、フロントガラスは1ピースに変更、フェンダーラインも改良されていました。1955年の生産終了までに208台のRタイプ コンチネンタルが製造され、15台の例外はあるものの、ボディはH.J.マリナーが製作しました。

Rタイプ コンチネンタルが発売されると、世界中から称賛の声が相次ぎました。『AUTOCAR』誌は「これまで体験したどんなドライブとも違う、別次元の感動だ。このベントレーは長距離を苦もなく駆け抜け、乗員を疲れさせることもない。空飛ぶ魔法のじゅうたんのような車だ」とその魅力を総括しました。

Side view of 1958 S1 Continental Flying Spur
Vertical fluted Bright Polished Chrome grille.

S1 コンチネンタル フライングスパー

1958 S1 コンチネンタル フライングスパー
4ドアのコンチネンタル
紋章にちなんだネーミング
ベントレー コレクションのS1 フライングスパー
コーチビルディング時代の終焉

ベントレーのチーフデザイナーであるJ.P.ブラッチリーとエンジニアのアイヴァン・エヴァーデンは、グランドツアラーとして高い評価を得ていたベントレーの栄光を復活させるべく、1952年に非公式なプロジェクトを立ち上げ、同年に発表したRタイプ コンチネンタルでセンセーションを巻き起こしました。そのクーペは、H.J.マリナー製作の優美なボディと時速100マイルで1日中巡航できる走行性能を誇り、究極のグランドツアラーとして絶賛されました。その後、H.J.マリナーがクーペのコンチネンタルを実用的な4ドアサルーンにしたモデルがコンチネンタル フライングスパーでした。

Rタイプ コンチネンタルが大成功したため、ベントレーはRタイプのドライブラインとシャシーの販売を続け、その後、1955年にSタイプを発売しました。H.J.マリナー、パークウォード、ジェームズ・ヤング、フーパー、グレーバー、フラネイといったコーチビルダーがSタイプに2ドアのボディを架装しました。そんな中、H.J.マリナーが最初に4ドアのボディを架装し、コンチネンタル フライングスパーが誕生しました。

H.J.マリナーのマネージングディレクター、アーサー・タルボット・ジョンストンはスコティッシュ・ボーダーズのジョンストン一族の出身であったことから、一族の紋章にちなみ、新しい4ドア車にフライングスパー(飛ぶ拍車)と名付けました。マリナーが架装した最初の4ドア車のラジエターグリルには、ジョンストン一族の紋章に使われている拍車のマスコットが装着されました。H.J.マリナー製作のフライングスパーが評判になると、他のコーチビルダーも4ドアコンチネンタルの製作に乗り出しました。S1 コンチネンタルは計432台が生産され、そのうち217台のボディがH.J.マリナーによるものでした。

ベントレー リネージ コレクションとして保管されているS1 コンチネンタル フライングスパーは、1958年にH.J.マリナーがボディを架装した車両で、エクステリアはブラック、インテリアはグレー、4.9リッター直列6気筒エンジンの出力は180bhp。当時の価格はイギリスの平均給与の約10倍にあたる8,034ポンドでした。オプションのオートマチックギアボックスとエアコンが装備されたこの車両は、現在も長距離を快適にドライブできます。S1 フライングスパーはベントレーの精神の象徴であり、今日のフライングスパーを開発したデザインチームにインスピレーションを与えた車でもあります。

ベントレーがシャシーとドライブラインを製造し、コーチビルダーがボディとインテリアを製作するというコーチビルディング時代の最後を飾ったのがRタイプ コンチネンタルとSタイプ コンチネンタルでした。1946年以降、クルー工場でボディも製作するようになると、社外のコーチビルダーは徐々に苦境に陥っていきました。Sシリーズはシャシーとボディが別々に製作された最後のベントレーとなり、1965年にTシリーズが登場すると、伝統的なコーチビルディングの時代は終焉を迎えました。

Detailed textured view of Terra Red stone veneer
Side angled view of Bentley Brooklands Coupe featuring vented brakes and and Bentley Radiator Mascot, parked indoors.

ベントレー ブルックランズ

1993年に初代が発売されたベントレー ブルックランズは2007年に復活を遂げました。ベントレー史上最強のV8エンジンを搭載し、最高速度は296km/h(184mph)。比類なき正統派クーペの血統を受け継ぎつつ、新次元のパワーを発揮しました。

Bentley Azure, roof down, parked on a hill with water body in background.
Close up of detailed contrast stitching set in Portland hide.

アズール シリーズ

アズール シリーズ
アズール
アズール T

アズールは最高のパフォーマンスを誇る刺激的なコンバーチブルです。初代アズールは1995年にデビューし、2003年まで生産されました。2005年に発表された2代目アズールは、より高性能なグランドツアラーとして市場に投入され、2009年には限定モデルのアズール Tが誕生しましたが、後継モデルのリリースがないまま、アズールは生産終了となりました。

どこまでも続く道と、どこまでも広がる空と、アズール。1995年にデビューし、2006年に2代目が登場したアズールは、最高のパフォーマンスを誇る刺激的なコンバーチブルです。洗練されたインテリア、流れるようなシルエット、どれも非の打ちどころがなく、ベントレーらしさに溢れています。解放感いっぱいのドライブを楽しみたいときは、わずか25秒でルーフが開きます。コンピューター制御の4速オートマチックギアボックスと、6.75リッターV8ツインターボエンジンを組み合わせ、スムーズなシフトチェンジ、一体感あるドライビング、エフォートレスな加速を実現。0-100km/h加速5.9秒(0-60mph加速5.6秒)最高速度274km/h(171mph)を誇る高性能ラグジュアリーカーです。

ラグジュアリーとパワーが絶妙に融合したアズールに続き、高性能版のアズール Tが登場。アズールの魅力である優雅なスタイル、流れるようなライン、優れたクラフトマンシップはそのままに、パワーアップを果たした魅力的なモデルです。力強く堂々とした佇まいの中に、ベントレーデザインの黄金時代からずっと培われてきたスポーティさを宿しつつ、現代的に進化したアズール Tは、最高の伝統を誇る英国製ラグジュアリーカーの傑作です。自信に満ちたルックスからインテリアの研ぎ澄まされたデザインに至るまで、すべてが相まってオープントップでしか味わえないラグジュアリーな体験を乗員4名にもたらします。広々とした空を眺め、押し寄せるトルクの波を感じながら、アズール Tを走らせる解放感は言葉になりません。6.5リッターV8ツインターボエンジンが最大トルク1000Nm、最高出力500bhp(373kW)を発揮し、0-100km/h加速は5.5秒(0-60mph加速5.2秒)、最高速度は288km/h(179mph)。驚異的なパワーと理想的なバランスで心躍る確かな走りを実現します。

Side view of Bentley Arnage, driving through an urban setting.
Close up of Belgua hide, featured in Bentley Arnage Range.

アルナージ シリーズ

ラグジュアリーサルーン市場の頂点に君臨
アルナージ
アルナージ R
アルナージ RL
アルナージ T
アルナージ ファイナル シリーズ

アルナージはラグジュアリーサルーン市場の頂点に長年君臨し、大成功を収めました。1998年の発売以来、ベントレーが誇る4ドアのフラッグシップとして洗練された上品な雰囲気で人気を集め、限定150台の「ファイナルシリーズ」で有終の美を飾り、アルナージの生産は終了しました。

ル・マン24時間レースの舞台であるサルト・サーキットのコーナーにちなみ、アルナージと名付けられたモデルは1998年に発売され、ベントレーのベストセラーとなりました。当初発売されたのは4.4リッターV8ツインターボのモデルのみでしたが、アルナージはそのパフォーマンスと洗練性で強烈な印象を残しました。4.4リッターエンジンのアルナージは1999年になるとアルナージ グリーン レーベルとして販売されるようになり、ベントレーの6.75リッターV8ターボを搭載したアルナージ レッド レーベルが派生モデルとしてラインアップに加わりました。

2002年に発売されたアルナージ Rは、グランドツーリングの哲学を体現し、かつてない感動のパワー、ラグジュアリー、コントロールで最高の旅を実現する車です。異なる2つの世界観が完璧に融合し、伝統と最新技術が絶妙に調和している車でもあります。非の打ちどころがないシートレザーや、コンピューター制御の6速ギアボックスなど、ため息が出るような美しさと、指先で操作できる便利さをドライバーも同乗者も享受できます。ドライバーが望めば400bhpを発揮するアルナージ Rは、6.75リッターV8ツインターボエンジンの魅力を堪能できるオアシスです。0-100km/h加速6.3秒(0-60mph加速5.9秒)、最高速度249km/h(155mph)の走りはどこまでもスリリングです。

世代を超えて受け継がれてきたコーチビルディング技術の集大成となったのが2001年発売のアルナージ RLです。アルナージ RLがキャンバスとなって顧客のビジョンが具現化され、パーソナライゼーションは新たな次元へと引き上げられました。アルナージ RLは、アルナージらしいデザインを残しつつ、ホイールベースを前方で50mm、後席側で200mm延長し、一段と贅沢な乗り心地を実現しています。もちろん、ドライバーズカーとしても一流で、ターボチャージャー付き6.75リッターV8エンジンと6速オートマチックギアボックスを搭載し、感動的なドライビングを叶えます。アルナージ RLのオーナーには、ほぼ無限ともいえるカスタマイズの機会が与えられ、世界最高レベルの職人や技術者の手によって理想の1台が製作されました。顧客の要望に応えたのは、ベントレーの伝統を重んじるだけでなく、現代に相応しいラグジュアリーのあり方を深く理解している人たち、たとえば、艶やかなウォールナットヴェニアや上質なレザーを仕上げる職人、車内をコンサートホールのようなサウンドで満たすオーディオエキスパート、後席で映画やテレビを楽しめるようにする専門家たちでした。

2002年に発売されたアルナージ Tは、静寂に包まれたラグジュアリー空間を提供しつつ、アクセルを踏み込めば、想像を軽く超えるパワーを発揮。職人技が光る至高のインテリアに身を置くと、この車の並外れた動力性能を忘れてしまいそうです。途方もない出力の6.75リッターV8エンジンと最先端のコンピューター制御式4速ギアボックスを組み合わせ、無数の電子システムを採用してあらゆる動きを制御。エレクトロニック スタビリティ プログラムが積極的なハンドリングを実現し、安定性や安全性もしっかり確保します。テクノロジーをフルに活用し、目の前の道を駆け抜ける歓びを一瞬たりとも逃しません。

1998年に発売されたアルナージは、ベントレーが誇る4ドアのフラッグシップとして洗練された上品な雰囲気で人気を集めました。その後10年の間、アルナージはボディ、デザイン、シャシー、パワートレインの改良を重ね、クラストップのラグジュアリーカーとして君臨し続けました。アルナージ ファイナル シリーズは、ベントレーモーターズの創立90周年とアルナージの10周年、そして強力なV8エンジンの50周年を記念して発表されました。ファイナルシリーズは、500bhpを誇るアルナージ Tのパフォーマンスにアルナージ Rの洗練性とブルックランズ クーペのデザインを融合させた独特の仕様を持ち、ブリティッシュラグジュアリーとエフォートレスなパワーを実現する究極の4ドアサルーンでした。アルナージは、限定150台のファイナルシリーズを最後にフラッグシップとしての役目を終えました。

Close up of Bentley Continental GTC's jewel cut full LED headlamps.
Bentley Continental GTC, in Silverlake colour featuring 21 inch wheels, parked on top of hill with sea in view.

コンチネンタル

21世紀初め、画期的な2ドアのベントレーが誕生し、グランドツアラーのデザインに新風を巻き起こしました。それがコンチネンタル GTです。驚異的なパフォーマンスと精巧なクラフトマンシップが融合するコンチネンタル GTは、発売後も改良を重ね、研ぎ澄まされたパワーもカスタマイズの豊富さも絶えず進化しています。

 

コンチネンタル GTはデビュー以来、様々なストーリーを紡いできました。世界ラリー選手権のドライバーズタイトルを4回獲得したユハ・カンクネンがコンチネンタル GT コンバーチブルを運転し、氷上での世界最速記録を達成したこともありました。また、ポップアート界のレジェンド、ピーター・ブレイクがコンチネンタル GT V8 Sのために独創的なエクステリアを創作したこともありました。コンチネンタル GTは人々にインスピレーションを与え続けています。

Green laminar leaves with serrated edges.
Bentley Flying Spur Mulliner, front side view with duo tone, exterior and matrix grille with black surround, driving on road.

フライングスパー

ベントレー フライングスパーは、ドライバーと同乗者が等しく最高の体験を享受できるように設計された4ドアセダンです。大人4名を包み込む十分な広さと至高の快適性を備え、湧き上がるパワーと機敏性を発揮します。並外れたドライブ体験をもたらす加速性能、ハンドリング、全輪駆動システム。そのパフォーマンスも贅沢なインテリアに注ぎ込まれたクラフトマンシップも新次元です。

Textured view of Tamo Ash by Mulliner hide
Bentley Mulsanne front view, featuring Matt Black matrix grille and Bentley Radiator Mascot, driving along a road with trees in backdrop.

ミュルザンヌ

10年にわたり、ベントレーのフラッグシップであったミュルザンヌは、世界最高レベルの職人技を駆使し、ラグジュアリーとパフォーマンスの究極の融合を実現したモデルでした。ラインアップは、スタンダードなミュルザンヌと、ダイナミックな走りを強化したミュルザンヌ スピードの2モデル。2014年にはミュルザンヌにフェイスリフトが施され、新鮮なデザインとインテリアオプションが追加されました。その後、派生モデルとして、レッグスペースの拡大と快適性の向上を図ったミュルザンヌ エクステンデッド ホイールベースが登場しました。

Close up of Bright Polished Chrome Matrix grille.
Bentley Bentayga, side angled view effortlessly driving in sand, featuring 22 inch alloy wheels and fluted front grille.

ベンテイガ

ベントレー初のSUV「ベンテイガ」は、世界初の真のラグジュアリーSUVとして2015年にデビュー。スペイン・グランカナリア島に存在する岩山ロケ・ベンテイガにちなんで名付けられ、かつてないレベルの洗練性とパフォーマンスを目指して設計、エンジニアリング、製造が行われました。ベントレーオーナーの皆様へのヒアリングと徹底したリサーチを基に、ベントレーに期待されるラグジュアリーな装備と躍動感あふれる走りの両方を叶える新型車として、ベンテイガは完成しました。